Anlie Catホームへいろんなくに CESKY KRUMLOV
2006初夏
posuta

そりゃあ、おいしいけど・・ 


☆チェスキークルムロフ滞在二日目の朝(にして最後の日)、窓の外の鳥の声で目覚める。プラハ城についでチェコで二番目に大きいというチェスキークルムロフ城が、目の前にそびえ立っている。おおきい〜!よし、今日は「赤門(ここから城内に入る)をくぐるぞ!

昼過ぎの出発までの時間を有効に使うため、地下のレストラン(にしては狭いが)へ急いだ。高校生くらいの女の子がメニューを持ってきて、温かい食べ物を選べと言う。なんてったってソーセージ?かな・・ってなわけで選んだところが・・・長さ20センチ以上はある(ホンマに)ソーセージが、ニャニャンと5本も!!付け合わせはカッテージチーズ。おいしいけどいくらなんでも朝から5本はにゃ〜。ビールもないし。スイカがあったのは嬉しかったな。チェコのスイカは切る前はどんな形しているんだろ?ラグビーボール形かな?味は抜群においしかったよ。

食事を終えた満腹ねことすれ違いに日本人のご夫婦が入ってきて、そりゃぁお上品に、ご丁寧に「おはようございます」と挨拶をされて 朝から気持ちよかったなぁ〜。イタリアでもそうだけど、なんで海外で日本人同士が出会うと、しらんぷりっていうか目もあわせないようにそそくさとすれ違うのだろう?「こんにちは!」「おはようございます」って声かけて何回も無視されても懲りない、しつこいネコがここにいてますぅ〜(へへ)。でも目が合った以上知らんぷりはできませぬ。相手が日本人じゃなくても「は〜い!」でも「ちゃお!」でも「こんにちは!」でもいいから ひとこと声をかけあいたいな。その方が絶対に「ごきげんさん」で旅できるし、思いがけない体験に結びつくような気がするのです。実際に「ぶおんじょるの!」の一言からお家にご招待をうけた体験が一度ならず数回ありまする。



食べ物
手前右は てんこもりのマスタード

早朝の町の風景

チェスキー・クルムロフ城内のお散歩

☆ヴォルタヴァ川沿いの南ボヘミアを支配していたヴィテーク家の家紋は、5弁のバラ。12世紀に5人の息子たちに、赤・白・黒・金・銀に分けたそれぞれの家紋を継がせた折、赤バラを家紋としたロジェンベルク家がこのチエスキー・クルムロフを継いだとのこと。城は13世紀に創建され、それ以後ルネッサンス。バロック・・とそれぞれの時代の様式で新しい建物が次々に造られたが、不思議に融合し調和しあっている。


にゃんともかわいらしい塔です

 

城のもっとも 古い部分は「フラーデク」と呼ばれ、赤い門(左の画像)をくぐって「第1の中庭(第1から第5まである)」に入り正面の建物のことで、「城の塔」へはここから上ることができる。

チケットを買って長い階段を登り始めると朝ホテルで挨拶しあったご夫婦に出会う。彼らはすでに降りてきていて、少しおびえた顔で奥さま曰く・・

ちょっとのぼるのはたいへんですよ〜

そっか・・と覚悟して登る。う〜む。これはなんじゃ〜。あっけないほどの早さで登り切ってしまったではないの!200段もないんじゃない?あのフィレンツェ・ドウォーモのクーポラ464段を初めて登った時に比べたら、

はっきりいって『 』です。(失礼しました。汗)

あ、階段が『 』だというだけで、塔の上からの眺めはいいですよん。左の「城の塔」は、民主化前(1989年のビロード革命以前)は単色のくすんだ色だったそうな。今では塔のオリジナルの鮮やかな色が蘇っている。


景色
1人約200円 のチケットと 塔の上からの眺め
模様
遠くから見ると不思議な感じ
模様
城のかべだけではなくフツーの家のかべにも

☆城内のあちこちの壁に見られるような変わった模様が、この塔をも覆っている。これは『スグラフィット方式』といって、二層の異なった色のしっくいを塗ってから 部分的に削って立体的に見せる・・・というものらしい。一種の『だまし絵』なのかな?。

城内見学はガイド付きツアーのみで、ここで時間を使うよりはエゴン・シーレ文化センターで使いたいので、城内に入るのは止めることにした。

中庭の散歩に向かう・・・



景色
城の中庭へとつづく道
城の中庭
この壁もスグラフィット方式

第2の中庭から見上げた空
きれ〜〜〜い
橋
第4と第5の中庭の間にある
プラーシュティ橋 からのながめ

☆チェスキー・クルムロフ城内での散歩を終え、さあ次はいよいよ『エゴン・シーレ文化センター』へいくぞ!っと。

『エゴン・シーレ文化センター』への道すがら・・


まち

文化センター近くの風景

 

 

店
メニューの上から 水色の水彩えのぐでサ〜ッとね
おしゃれなつもり? でも読みにくいの

 

☆1992年に最初のチェコの世界歴史文化遺産に指定されてから、町は急速に昔の輝きを取り戻している。


今回チェコから帰ってきて、エゴン・シーレ関係の本にあらためて目を通してみたところ、彼がチェスキ・ークルムロフ(母マリーの故郷)に滞在したのは1911年、エゴン・シーレ21歳の時のわずか数ヶ月だったようだ。最終的に村人に排斥される形でウイーンにもどるのだが、当時、彼はここを『死んだ町』とよんでいた・・とある。

事実、民主化前に訪れていた人の話によると、建物の屋根も抜け落ちて今にもくずれんばかりの廃墟のような町だったそうである。

そういえば日焼けでめくれたあとのような(今は昔の話?)建物も、未だ裏道には建っていたなぁ〜。

 


窓枠の青が、いじらしいにゃn

 


路地の奥にはこんなすてきな店が・・

永遠のこども エゴン・シーレ

 

☆シーレの絵が語られるとき、必ずと言っていいほどクリムトの名が一緒にあげられる。確かに影響は受けたのだろうけど(特に十代) 。
シーレの絵とクリムトの絵は対極にあるような気がするんだよにゃぁ〜。

だってシーレの絵に惹かれる100分のいち程にも、クリムトの絵にはこころを動かされないもの。
(あくまで、自分の感性中心のエセ批評ネコの言葉でする)

屋根
こう配のきつい 屋根の修理はむずかしそう
瓦
かなりうすいカワラ
(カワラせんべいくらいのあつさに見える。笑)


文化センター
シーレ文化センターの入り口
川
ここからも塔がみえる

☆この文化センター内にある『シーレ常設美術室?』には、彼が実際に使用していたソファーや等身大を映す大きな鏡もおいてある。自画像を描くときに使っていたのかしらん。若干28歳、スペイン風邪(インフルエンザ)で亡くなるまでずっとね。

映画『エゴン・シーレ』の監督が 『シーレの絵は、また彼の日記でもある』といったそうだけど、特にその時々のたくさんの自画像は まさしく彼の日記なのかもしれないな。Anliecatのいちばん好きな作品が、その自画像の数々だもの。


シーレ自画像
1912年(22才)の 自画像 (この目が、いい)



左手おくから入るとシーレ常設美術
(パンフレット写真)

☆80点あまりの作品(残念ながら油彩画は一点もない)や写真、直筆の手紙などを堪能したあと、すぐそばを流れるヴォルタヴァ川の景色をしばし楽しむ。プラハ市内を流れる広く大きなヴォルタヴァ川に比べると ホントに狭い。

S字を描いて蛇行する川沿いに発展した城下町『チェスキー・クルムロフ』。いよいよお別れの時間ですよぉ〜
げ〜っ、お昼ごはんを食べてる時間がにゃいよぉ〜(涙) 帰りは終点の手前のバス停から乗る予定だからぁ〜わ〜〜〜〜^^^^^^


この後このうかれネコに 悲惨な状況が待っていようとは、
この時点で誰が予想できたであらうか?(いや誰もできたはずかない・・)

二日目後半(近くて遠いプラハ)へとつづく。。。

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